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【代表者プロフィール】バイクで旅する空き家投資家ジョージ

代表者プロフィール

1962年生まれ。東京都大田区で生まれ中学まで大森で育ちました。

 

蒲田と川崎に挟まれて、ちょっとした都会のオアシス的な存在だと思います。競艇とかやる人は近くに平和島競艇や平和島温泉もあるのでご存じだと思います。

 

小・中学校の思い出は…マンションの屋上から石を投げてタクシーの窓を割ったり、チャリンコを盗んでおわまりさんに捕まったりとごく普通の学生生活を送っていました。

 

以後、多少前後しますが、ジョージのプロフィールを年代別にまとめてみました。

 

【10代】単身フィリピンへ高校留学

その当時、母は「ナパ」というステーキハウスを経営していました。五反田にある「ステーキハウス・リベラ」見たいな感じの店でした。その店の常連さんで日航のパイロットでゲタさんという人がいました。

 

ゲタさんは、定期的にパイロットの訓練やフライトでカリフォルニアへ行っていました。その度に高級そうなお酒やタバコやお土産を買ってきてくれました。

 

そんなゲタさんの土産話に母が感化されて、僕が中3の時に何となくアメリカ留学の話が進んでいました。

 

その当時、「白バイ野郎ジョン&パンチ」を見ながら「ハーレーじゃなくてカワサキZ1000なんだ〜」と夢を膨らませていました。

ジョンアンドパンチとコロンボ

引用元:wiki

刑事コロンボに登場する容疑者の多くは資産家でデッカい家に住んでいて「アメリカの金持ちはケタが違うな」とか言って喜んでいました。

 

学校もゲタさんが色々と探してくれてたのですが、未成年の留学には現地で保証人が必要だと分かりアメリカ留学の話はなくなりました。

 

その当時、母はスナックもやっていて、その店の名前は「ロン」といいます。同じく常連さんでタンさんという人がいました。タンさんは新聞記者で3月にシンガポールへ転勤することが決まっていました。

 

そんな時に母が「3月ならちょうど良いからうちの子も連れてってくれない」と唐突に一言。タンさんは現地の保証人にもなれるし家に下宿も出来るので願ったり叶ったりだと母は喜んでいました。

 

僕はというと、名前も聞いたことのない国で、白バイ野郎もコロンボもいない国へは行きたくなかったのですが、話はトントン拍子で進みシンガポールの長い名前のスクールへ留学しました。
※今はUWCSEAという学校名みたいですね。

 

International School Manila

International School Manila

 

結局シンガポールは1年で、その後フィリピンのインターナショナルスクール転校しました。また機会があればフィリピンのおもしろ話もご披露しますね。

 

帰国子女と大学進学

何とか無事に卒業、その後の進路は何も決まっていませんでした。進路相談のカウンセラーは「アメリカの大学なら好きなベースボールが存分に出来るぞ!」と言って白い歯をキラキラさせながら言っていましたが、4年間(1年留年)の海外生活期間中に満足に日本の女の子とお友達になることが出来なかったのが1番の心残りでした。

 

こうなったら日本の女の子のお友達を作ろうと思い、帰国しました。

 

その当時、「帰国子女」という「海外で学校を卒業した日本人には簡単な面接で大学へ入学させてあげよう!」というありがたい制度がありました。確か、慶応とか上智とか筑波大とかが、その制度枠を採用していたと思います。

 

慶応は、必要書類が揃わずダメで、上智は、面接官の先生から「お父さんは何の仕事をしてますか?」と聞かれ「面接に来ているのはオヤジじゃなくでオレだ!」とか啖呵をきってもれなく撃沈。※家も近いし女の子もキレイだしホントはここが本命だったのに…😭

 

あとは、多摩動物公園で下車して坂道を登って行く学校は、「どうしてフィリピンの田舎から帰国して、それ以上の田舎へ···」と途中で行かなくなりました。

 

親とはこの一件以来、20年くらい会わなくなりました。今にして思えば親不孝の極みです。

 

【20代】得意じゃない英語を活かす

考えるゾウ

「やっぱりオレは日本の社会は無理かも···」と思い、「ジャパンタイムズ」の求人欄で仕事を探しました。そんな時「英会話学校の求人募集」を見つけました。

 

「英語を教える資格はないけど、広報とか営業ならいけるかも..」と勝手に当たりをつけて応募しました。

 

この時の面接は、今でもはっきりと覚えているほど鮮烈なものでした。明らかにダイヤモンドだと分かるキラキラなピアスとゴールドのロレックスをした外国人が流暢な日本語で「なんで日本へ帰って来たんですか?」と聞かれました。これまで日本で会った誰よりも自分のことを分かってくれる人に出会えたと直感しました。

 

その人がアーサン部長です。後にネブラスカ州のオマハにあるウォーレン・バフェットの家へ一緒に行くことになります。※機会があれば「オマハの旅」の話はまたしますね😊

 

ともあれ、アーサンの部長のもとで英会話の営業を10年ほどやっていた頃、

たぶん30歳前後だっと思いますが、友人から「ニュージーランドのホテルで働かない?」と電話がかかって来ました。

 

「親がニュージーランドのロトルアというところにある小さいなホテルを買ったから、そこで現地のマネージャーをやって欲しい」という話でした。

 

英会話の仕事も飽きてきていたこともあり、その話に乗ってニュージーランドへ行くことにしました。ちなみに英会話時代の最終役職は部長でした。

 

【30代】NZでホテルマン時代

ホテルマン時代

ホテルのマネージャー時代の写真です。マオリ族のハンギという郷土料理を食べながらショーを見るという企画のヒトコマです。左から2番目が30代の頃です。

 

その後、ホテルマンから日本人が所有する海外不動産の管理とコンサルをする会社を立ち上げました。

 

【40代】海外不動産コンサル

海外不動産コンサル

この写真は、1962型ロールス・ロイスのシルバーシャドーという車を買った時にガソリンスタンドで写したものです。もちろん中古ですが、金色のロールスということもあり、観光や物件の視察には重宝しました。

 

バブルの絶頂期から翳りが出始めてきた頃に、日本人が海外に所有する不動産の売却や管理の仕事をしていました。

ヒッチハイク

フィンランドのヘルシンキ駅

 

ネットビジネスとの関わり

ネットビジネスとの関わりは1990年代後半だったと思います。この頃からインターネットで物件を紹介するようになりました。

 

「庭に2000本のバラが咲き誇っているローズコテージと呼ばれる湖畔の庭園」だったり「アメリカの有名な作家(シドニー・シェルダン)が長期宿泊して作品を書いたとされるホテル」など、一筋縄では売れないような物件ばかりが売れ残ってしまいました。

 

地元の不動産屋業者では手に負えず、世界中にフランチャイズがある有名な業者さんも価格帯とカテゴリーに合わず、今でいう「ラクジュアリー不動産」という位置付けがない時代でした。

 

そこで海外不動産を紹介するポータルサイトを立ち上げました。オーナーは日本人ですが買い手は外国人なので英語でサイトを作り物件の写真や詳細をアップしました。

 

問い合わせが一番多かったのは不動産業者でした。価格も億単位で仲介料も高額になるのが理由です。その他にもブルネイの王族関係者とか、5つ星ホテルをリタイヤした料理長などから問い合わせがありました。

 

この頃が、英語でのセールストークやプレゼンの技術が一番磨かれた時だったと思います。

 

最初は、ニュージーランドからはじまり、次第にオーストラリア、ハワイ、アメリカ本土へとネットワークが広がり、主に日本人オーナーが海外に所有する不動産を売却するお手伝いをしていました。

 

バブル経済の終焉と共に海外不動産コンサルは下火になり物件管理の仕事は減り収益率も下がり潮時感がありました。

 

その後、親の介護もあり日本へ帰国しました。帰国後、駅近の小さなスポーツバーを始めました。

 

【50代】スポーツ・バー経営

ペロちゃん

コロナの影響で昨年に引き続き、今年も開店休業状態が続いています。

 

現在は、人に任せて店には入っていないので空いた時間で単発的に「海外不動産関連のコンサル」「オヤジ仮想通貨ブログ」を書いたりしてます。

 

よく人から「今まで行った国で一番いい国は?」と聞かれます。

 

海外生活は通算で20年くらいになりますが、歳をとったせいなのか....。

 

やっぱり日本がいいですね😘

 

【60代】バイクで旅する空き家投資家

「還暦を機に何か新しいことに挑戦」をしたいな、

「趣味と実益を兼ねて何か出来ないかな」との思いが膨らんでいた頃…、

 

一枚のハガキが届きました。

 

「ねんきん定期便」のハガキ

60歳まであと1ヶ月となった12月のある日、1通のハガキが日本年金機構から送られてきました。

 

『大切なお知らせ「ねんきん定期便」です。必ず中身をご確認ください。』とありました。

 

↓そのハガキの中身がこれです。

ねんきん定期便

内容を説明すると、

今までに支払った年金の総額2,036,270円で、65歳で年金を受け取る見込み額380,689円でそれが70歳まで遅らせると540,578円になるというお知らせです。

 

今から10年後の70歳から受け取るとして約54万円なので月々45,000円という計算になります。

 

要するに、70歳から45,000円の年金が死ぬまで支給されます

 

その時に、父のことを想い出しました。

 

父は、昭和5年生まれで70歳を過ぎても働いていました。80歳が過ぎて病気がちになり、姉と僕で介護とお金の管理をしました。父は、僕たちが留学している時は中東で石油のプラント建設をしていました。

 

その時、父が支給さていた年金(国民年金と厚生年金など)の合計が月額計算で70万円くらいだったことです。

 

姉とは、「どうせ親の金なんだから一番いい病院で治療や入院しよう」と話していたので、年金と保険で医療費や諸々の費用の支払い済ませられました。

 

年金月額70万円VS月額4.5万円

確かに父の時代は、大手建築会社で働き企業年金も手厚く、日本の景気も良かった。

 

その一方で僕は、高校から海外留学して帰国したのは30歳頃です。会社員の経験は一度もなくずっと自営業者でした。

 

年金が少ない言い訳としては、途中で何年か海外に住んだりして抜けたことがあったからかも...です😂

 

とは言え、僕の年金4.5万円の14倍、父は支給されていた計算になります。この差は、すごいですよね😭

 

この時に、今まで他人事だった老後や年金のことをようやく自分事として捉えるようになりました。

 

幸い本業である飲食業は、コロナの影響で休業中で考える時間はたくさんあります。

  • 「60歳から何をしたいんだろうか?」
  • 「70歳からの生活設計は?」

 

今にして思えば、この頃が「目標が定まらず」一番キツかったかも知れません。

 

70歳から医療費が激増する

追い討ちのように70歳からは「医療費の本番」でお金が余計にかかることも分かりました。

 

↓この内閣府の統計をみると70歳から医療費が右肩上がりで伸びているのが分かります。

年齢別医療費推移

出典元:内閣府

 

今より健康ならいいのですが、普通に歳をとれば「70歳から医療費という新たな支出項目が増える」ことになります。

 

このまま何もしなければ、支出はUP 収入はDOWN」という現実がほぼ確定します。

 

そのためには、「今から準備しないといけない。」と切実に思うようになったのが、2021年12月でした。

 

気がつくのが、ちょっと遅いですよね😂

 

残りは「やり残しを潰す」だけ

「仮想通貨投資」にしても、「バイク」にしても今しか出来ないことだと思ってます。

仮想通貨は、「今やらないと一生食わず嫌いになる」と思い、後者は、「ここから10年がバイクを楽しめる一番の時期」という思いがあったからです。

変化が激しい今の世界でも変わらないものが一つあります。それは「自分がやり残したことを潰す」ことです。

僕の中では「バイクで旅する」「仮想通貨投資」「仮想通貨ブログ」は同じ重要度で「やり残しリスト」の最上位です。

今までの人生には悔いはありませんが、これからの人生をもっと楽しくしたい。

ブログを立ち上げ→ツイートをはじめ→仮想通貨の取引所でアカウントを開設→ビットコインを買い→大型免許の教習所へ行き→バイクを買う。

これだけの一連の流れを去年の12月から実行出来た自分をちょっとだけ褒めてあげたいと思っています。

動くと決めれば「あっという間」に出来るものだと痛感します。

色々な国は見てきたので、これからは愛車カワサキZ900に乗って日本の色々な場所へ行くのが楽しみです。

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